[ 共同研究『ロシアと日本』第4集、2001年3月刊行より]

  サハリンから日本への亡命者−シュウエツ家を中心に

はじめに
 中国とロシアの国境をなす黒龍江(アムール川)沿いにある町「愛琿」の博物館には、両国国境をめぐる様々な歴史についての展示がある。「キャフタ条約、愛琿条約、北京条約によって、日本の面積の 30倍にあたる父祖伝来の土地をロシア帝国に奪われたのだ」と、解説員は説明してくれた。
 展示パネルにはその国境の変化が逐一示されていたが、北海道の上 部にある島には、「庫頁島」という文字が記入され、1860年の北京条約により中国からロシアに「割去」されたという注がなされていた。いうまでもなく現在のロシア領サハリン島である。一方、「日本史」上では、17〜18世紀頃から松前藩が経営していたとされる「樺太」に他ならなく、島の帰属をめぐって、日本とロシアで交渉の結果、最終的には1875年の樺太千島交換条約により、国境が確定したことになっている。この島が、「国家」という枠組みに捉えられた時の状況は、かくもあいまいなのであった。そして、島の住人の歴史も、数奇な運命にあった。元々住んでいたのは、アイヌやウイルタ、ニヴフなど現在は少数民族といわれる人々である。そこに日本人やロシア人、朝鮮人が移住した。時と場合によって移住の内容は様々で、自由意志の人々もいたが、囚人であったり、亡命者であったり、強制 労働者であったりもした。島を出る人々の事情も様々である。個人の事情もあれば、国家の事情もある。サハリン島の19−20世紀は様々な人々が国家の都合や戦争に翻弄された時代であった。
 本稿では、サハリンに流刑された後、日本に亡命したロシア人一 家、シュウエツ家の足跡を中心に当時のサハリンと日本をめぐる状況 を考察してみることにする。

シュウエツ家とサハリン
 ロシアは日本との条約締結前の1869年に、すでに法律によってこの島を流刑地としていた。以来、島にはロシアからの流刑者やその家族が増えていったのである。そして新しく領土とした極東地方に移民や物資を送り込むため、黒海(ウクライナのオデッサ)から沿海州(ウラジオストク)やサハリン行きの航路を開いた。義勇艦隊がこの航路で活躍したことは有名である。1879年に同艦隊所属のニジニ・ノヴゴロド号が600人の囚人を護送したが、これが第一号であった(1)
 ウクライナがルーツというシュウエツ家も義勇艦隊に乗って来たのかも知れない。子孫の言い伝えでは一族のうちに「ロシア皇帝の馬鹿」と言って、捕まって流刑された人がいたという。しかし詳細は定かではない。シュウエツ家で記憶されている最古老、ドミートリイ・ニコラエヴィチ・シュウエツは、ウクライナで1883年に生まれたというから、シュウエツ家がウクライナを出たのは、それ以降だったことになる。子孫が知る限りではドミートリイとその家族が住んでいたのは、島の北西海岸にあるアレクサンドロフスクであった。ここは、1881年に開かれたところで、サハリン島の監獄や流刑植民地を管轄する軍務知事の役所があった。
 作家アントン・チェーホフは、1890年に島を訪れたが、もしこの 時シュウエツ家がサハリンに移住していたとすれば、会っていた可能性もある。作家の報告によれば、アレクサンドロフスクには自由村というのがあって、流刑民の家族も含めた自由民や元流刑民(流刑民はふつう10年で、元流刑民の農民という身分になる)等が住んでいたという(2)
 1904年、日本とロシアとの間に戦争が起きた。その終盤でサハリン島には日本軍が上陸し、翌年7月に同地を占領、翌月にはアレクサンドロフスクに民政署が置かれ、同地は日本の支配下に入った。当時この町は島一番の都会で、民家500戸、官公庁及び官舎が300戸、人 口は憲兵と囚人を除いて3000人だった。ウラジオストクに本店があるチューリン商会やクンスト・アルベリス商会の支店もあった(3)。しかし9月のポーツマス講和条約により、日本領は北緯50度以南とされたので、民政署は南部のコルサコフに移転した。
 ドミートリイの妻はエフロシーニャといいサハリンで結婚したと思われるが、二人のあいだに、フィリープという息子が生まれたのは、1905年10月のことだった。町が日本から解放されてまもなくのこと だったのである。さらにマールファという娘がここで生まれた。

日本領樺太のロシア人の顛末
 北緯50度以南の島の半分が日本領「樺太」となった時、大半のロシア人は島を出て大陸にもどったのだが、そのまま居残った200人ほどのロシア人がいた。ポーツマス条約第10条により旧島民であるロシア人の進退は各自の意志による選択が許されたのである。戦争のためではあったが、消極的ながら彼らは国を捨てたわけだから、広い意味では亡命者といえるかもしれない。日本側は彼らを「残留露人」(民族的にはポーランド系やタタール系も含まれていたが、以下ではロシア人とする)と呼んで外国人として扱い、当面彼らの土地使用はそのまま黙認した(4)。一方、島を出るロシア人のなかには金銭的に不遇な人もいて、コルサコフ港からロシア領事のいる函館港を経由して、そこで帰国に係る費用を負担してもらったものもいた(5)
 樺太に残ったロシア人たちについて詳細に語る余裕はないが、大略を述べておきたい。当時彼らは日本の作家やマスコミ関係者にとって、非常に興味をそそる存在であったらしく、北原白秋や岩野泡鳴など著名な人々も彼らのことを書いている。駅のホームでパンを売るロシアの子どもたちの姿などは格好の題材であった。ルポルタージュであったり、文学作品であったりするが、管見の限りでは、その関心のありかたは、異国趣味的で散漫な印象を受け、社会的あるいは政治、 思想的な関心は感じられない。
 樺太のロシア人人口の推移は下表のとおりである。少しずつ減少していった様子がうかがわれるが、1920年代後半から再び増加している。これについては後に触れる。

190619091912191519181921192419271930193319361940
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『樺太庁治一班』、『樺太庁治要覧』等から作成

 ロシア人たちについては樺太庁がかなり詳しく調査をしたことがあった(6)。家族構成や財産から思想的・政治的傾向までかなり綿密な調査である。暮らしぶりをみると、牧畜業やパン製造などで自活する人々はそこそこのようで、なかには財産一万円以上という裕福な家が三戸もあったが、その日暮らしのような牧夫なども少なくなかった。なお、樺太庁では、黙認してきたロシア人の土地については1909年から生計の確実なものにのみ、有償で土地を貸し付けるということになった。1936年の場合、貸付けされた住宅地は11件・5973.75坪、畑が7件・11万4631坪、牧場が4件・81万6584坪であった(7)
 ロシア革命とそれに続く一連の出来事が、サハリン島にも大きな影響を与えた。前にふれた人口の増加はまさにその余波である。表では1924年から1927年の間で大きく人口が伸びていることがわかるが、細かくいえば1925年に127人と前年より50パーセントも増加した。この新たなロシア人の流入は、いわゆる「シベリア出兵」していた日本軍が撤退を決め、「尼港事件」の報復としてそれまで占領していた北樺太を撤退したことによるものであろう。極東が完全に赤軍に掌握されると、反革命派の人々は、陸続きで国境を接する南樺太や日本本土へと次々に亡命した。「残留露人」に比べるとこちらは積極的な亡命者ともいえよう。
 1925年の日ソ基本条約締結後、在東京ソ連大使館は同年11月1日から1926年4月30日まで、日本在住旧露人の国籍取得申請を受理する旨を発表し、その通知に関して日本の外務省に依頼があった。しかし外務省はとても不可能だとして断った。樺太にこの情報がきちんと伝わったのかどうかは不明だが、結局樺太ではこの期間に手続きをとったものは一人もなく、また日本に帰化した人もいないので、樺太庁では彼らを「無国籍」とみなしたようである(8)
 ところで、樺太のロシア人たちは、買い物や商売のために、北海道や本州へ自由に往来できたらしい。特に函館とは定期航路があり、また亡命ロシア人が多く住んでいる土地柄でもあり、商売はもとより色々な点で密接なつながりがあったと思われる。たとえば樺太にはロシア正教会がなかったので、樺太生まれのロシア人が函館の正教会で洗礼を受けた記録がある。また函館在住のクラフツォフとデンビーは、共同事業で鮭や鰊、フレップ(樺太の特産でコケモモを意味するアイヌ語)などの食品加工業を営んでいたが、ロシア人同士のネット ワークを通じて、樺太の農産物や水産物品を仕入れていたのではないだろうか。

シュウエツ家の亡命と函館での生活
 話をシュウエツ家にもどすと、一家は革命をきらって、アレクサンドルフスクから、日本が支配する「樺太」に亡命した。それは1920年代の前半のことだと思われる。豊原(現ユジノサハリンスク)に建てた家は現在でも残っているといわれているが、筆者はまだ確認していない。家業は毛皮商で、経済的には恵まれていたようである。ドミートリイとともに息子フィリープも15歳の時から、商売をしていたという。
 フィリープは、豊原でゾーヤ・アントノーブナ・サゾーノワと結婚した。彼女の実家も樺太にありシュウエツ家よりさらに裕福だったという。それからゾーヤの出産のために、一家はハルビンへ移住し、1926年にドミートリイの孫でありフィリープの息子であるヴァレーリイが生まれた。その下にはジナイーダという娘も生まれた。ハルビンではフィリープと妹のマールファは中等学校に入って学ぶ機会を得た。ハルビンは極東における亡命ロシア人の拠点であるから、教育機関はもちろん様々な意味でロシア人には暮らしやすい場所であったは ずである。
 1929年、一家はハルビンから函館へと移住した。函館の住所は正 教会からほど近い元町21番地であった。函館は毛皮の集散地として海外にも名を知られ、特にロシア革命前までは、ロシア産毛皮の売買で賑わった。その模様を新聞は以下のように論評している(9)。「函館の毛皮革類は古くから盛んに外国へ輸出され、近年に至りては内地の需要も非常に増加し前途甚だ有望である。乱獲により昨今は産額著しく減少して到底往事のごとき盛んなる供給をみることは出来なくなった、しかしそれでも本道はもとより樺太、露領沿岸方面の毛皮類が依然北海毛皮としての声価を博し需要の激増と共に函館の特産品として頗る重要の位置を占めている」
 ロシア革命後はその地位が低下したとはいえ、日本国内の毛皮需要が伸びてきて、函館は重要な供給地だと報道されている(10)。シュウエツ家が一般的にいえば暮らしやすいハルビンから、わざわざ函館に移住した理由は、その市場としての魅力だったと推察される。函館では毛皮のほか洋酒や砂糖などの取引、それに不動産業にも携わっていて、成功をおさめたらしい。一家の長であるドミートリイは、非常な倹約家であり、仕事振りもまじめで、酒やタバコもやらない人だったという。
 1930年には5000円をかけて邸宅を新築した。5000円の家は当時としてはかなり立派なものである。その時に函館在住の白系ロシア人や一部ソ連系の人も招いてパーティを開いた様子が警察の記録に残っている(11)。この建物は現存していて、今ではソーセージ会社で成功したドイツ人カール・レイモンの家として知られている。
 ドミートリイは商売の関係上、サハリンをはじめ極東地域の白系ロシア人、それにソ連系の人々とも交際があったようだ。取引相手には、その頃樺太のトナカイ王として有名だったヤクート人「ヴィノクーロフ」もいる。
 商売の実情はわからないが、毛皮は高価なものなので、大きな金額が動くものだったことは想像がつく。1932年に函館税関で、ドミートリイ所有の黒貂の毛皮47枚、5000円相当が盗難にあうという事件があった。5000円といえば、先に述べたように高級住宅が建つ値段である。これはドミートリイがカムチャツカから輸入したもので、検査のために同税関にあったものを、職員が盗んで売りさばいたという事件であった。新聞によれば、ドミートリイは損害賠償の訴訟をおこしたというが、補償を得られたかどうかは不詳である(12)
 1934年11月、ドミートリイは東京に洋酒を仕入れに行った帰り、函館へ向かう列車に乗り、その列車から落ちて亡くなった。栃木県の蒲須坂という駅構内で両足を切断された遺体が発見されたのである。単なる事故か、殺人だったのか、新聞では謎という表現もなされている(13)。一家の周辺では、彼の所持金目当てに、誰かが殺したものと伝えられているが、真相はわからない。
 彼の遺体は、函館のロシア人墓地に埋葬された。この時立ち会ったのは函館の白岩神父と神戸にあったロジェストバンナ教会のボブロフ神父であった。最初は普通の墓が造られたが、後にチャペルのような立派な造営物が建立されている。敷地も5坪とこの墓地で一番大きな墓であるが、豊かな財力の象徴のようにも思われる。
 ドミートリイ亡き後、フィリープが函館で家業を継いでいたが、盗難事件以来、函館税関が毛皮にかける関税が不当に高いという感を強くしていたという。そこである日本人をパートナーにして、その名義で輸入手続きをとるようになっていた。1935年にその日本人から毛皮の密輸をもちかけられ、そのまま任せたところ、それが発覚して、関税法違反で起訴され、1万8000円という巨額な罰金を科せられた(14)
 この事件の後、1936年に一家は函館を去ることになった。密輸事件も無関係ではなかったと思われるが、家族の話では第一の目的は子どもたちの進学のためであったという。ヴァレーリイと妹のジナイーダは函館の小学校に通っていたが、函館ではロシア人子弟の教育には限界があったのであろう。函館で喫茶店を経営していたズヴェーレフ家でも、やはり子どもたちを東京のミッション系の学校に進学させている(15)。カール・レイモンに家を売ったのはこの時なのだろう。

第二次世界大戦と在日亡命ロシア人
 一家は最初、神戸に移住したらしいが、ドミートリイの妻エフロシーニャと娘のマールファだけが神戸に残り、フィリープとその家族は、商売の関係上すぐに東京へ出てきた。仕事は同じく毛皮商であったことは、当時フィリープについた警察の尾行記録が示している(16)。フィリープは、北海道庁でおこなわれる毛皮の入札や買い 付けのためなど、東京に移住してからも北海道や樺太へは何度か行ったのだが、それが警察の注意をひいたのである。
 この頃、日本とソ連の間には張鼓峰やノモンハンで軍事衝突があり、不穏な空気が流れていた。このような情勢を背景に地理的にソ連と近い樺太や北海道の白系ロシア人には「ソ連側のスパイ」という疑いの目がもたれることは不思議ではなかった。
 太平洋戦争が始まるとそれは一層強まった。北海道庁警察部外事課は「(北海道は)対米、対蘇ノ関係ニ於テ国防上極メテ重要ナル地位ニアルトコロ、大東亜戦争勃発後…米蘇ノ諜報宣伝、謀略工作ハ…逐日熾烈化ノ一途ヲ辿リツツアリ、斯ル情勢下ニ於テ外事警察力ノ全力ヲ挙ゲテ之等諜報、謀略、策動ノ破礑検挙ヲ期シアリ」(17)と、アメリカとソ連の諜報活動には特に厳しい注意を向けていたのである。
 戦時特別措置として敵国人の抑留が始まったが、白系ロシア人(旧露国人)は第三国人とみなされ、抑留の対象ではなかった。しかし、もちろん容疑があれば検挙されることはいうまでもなく、また戦局が深まるにつれ様々な形で抑圧が強くなった。
 函館では先にふれたズヴェーレフ家の主人が、樺太・北海道を舞台に1942年12月に一斉検挙となったスパイ事件に巻き込まれた(18)。有罪の判決を受け、1944年に札幌の監獄で獄死している。函館にはソ連領事館や漁業基地ゆえのソ連領への航路がある一方、要塞地帯でもあったことから、白系ロシア人に対する警察のマークはかなり執拗であったらしい。
 そのため、1939年には30人ほどいたロシア人が、戦後にはわずか数人になっていた。昭和31年12月8日付けの「北海道新聞」は、その減少を本州各地に散ったからだと述べている。もっとも、この戦争では日本全体の白系ロシア人が少なくなったのであって、1940年に537人だったものが、1947年では231人となっている(19)
 前述のスパイ事件は、比較的自由に暮らしていたようにみえる樺太のロシア人にも大きな影響を与えた。危機感を持った樺太庁が、1943年度から樺太のロシア人を集合させて牧畜をさせることにしたのである。長浜村荒栗(現ウイルセキー)の旧教徒の集団と、各地から集められて富内村上喜美内(現タンボフスコーエ)に新たに収容された集団があった。住み慣れた土地や家屋は、二束三文で買い取られたのだという。このあと日本が戦争に敗れ、ソ連軍が島を占領すると今度は、少なからぬ人が「日本のスパイ」として投獄された。彼らに ソ連国籍が与えられたのは、1950年代のことであった(20)
 東京のシュウエツ家は開戦後まもなくスパイの疑いを逃れて身の証をたてるため、日本軍への献金を数度おこなった。フィリープの名前ではもちろん、息子や娘の名前でも献金をしていたことが、残されている感謝状から知ることができる。このような献金はシュウエツ家だけではなく、各地の白系ロシア人がおこなっていた。
 戦争の末期になると、敵国人の抑留のみならず、外国人全般を対象に疎開という名目や「絶対居住禁止区」の設定により、立ち退きを強制するようになった。立ち退き先はいくつかあったが、軽井沢一帯に多くの外国人が居住していたことはよく知られている。野球選手だったスタルヒンは1944年8月頃から軟禁状態になり軽井沢へ送還されたという(21)
 同じ白系ロシア人でも、シュウエツ家をはじめとするのいくつかの家庭は東京を離れずにすんだが、1945年3月の東京大空襲に見舞われた。この時在京の白系ロシア人たちは、あらかじめ約束していたニコライ堂近くの聖橋の下に集合したのだという。ここに避難できずに亡くなった人もいたらしい。ニコライ堂の中には、空襲の被害となった人々の遺体が運ばれていて、見るに耐えない悲惨な光景だったそうである。
 戦争中の正教会は、宗教団体法により外国人がトップにいることができず、ニコライの跡を継いだセルギイ府主教はその座を降りていた(22)。フィリープはその後のセルギイの面倒をよくみたという。敗戦直後、セルギイが亡くなると、その葬儀の手配をしたのもフィリープであった。シュウエツ家は在京の白系ロシア人のまとめ役のような立場になっていたようである。
 戦後、GHQは白系ロシア人の処遇については連合国国民と同一とみなし、これにより、国際赤十字による食糧や衣類などの配給がなされたので、恵まれた環境にあった(23)。また「白人」の容貌を持つロシア人は、日本人から見ると連合国の人間と区別がつかなかったので、その点でも戦後の「地位」は大きく上昇したらしい。フィリープは日本橋でシュウエツ・カンパニーを設立し、キューバから輸入した砂糖の販売などをおこなった。世の中は食糧難であり、砂糖は高値で取引されていたので、利益は大きかったものと思われる。
 戦後ニコライ堂は、東西冷戦の余波を受け、モスクワ総主教との関係を離れ、アメリカの正教会の傘下に入った。この時にフィリープを代表とするロシア人信徒たちは、モスクワ総主教に帰属すべきと強く主張したがしりぞけられたため、独自にモスクワとの関係を持ち続けた(24)。別に教会(ポドヴォーリエ)をつくったのである。フィリープ亡き後は、ヴァレーリイがこの教会の運営についても力を尽くした。
 ヴァレーリイは在日ロシア人が横浜の外人墓地に埋葬される時には、ほとんど毎回のように立ち会ったという。函館から上海に亡命し、戦後帰国して鎌倉で暮らしていたデンビーの墓を横浜の墓地に造ったのも彼であった。そのヴァレーリイも1997年にこの世を去った。

おわりに
 ウクライナを出たあと、サハリン(樺太)、ハルビン、函館、東京と長い旅をしてきたシュウエツ家の歴史をたどってみた。戦前から日本に住むロシア人が、ほとんどいなくなってしまった現在、一家は貴重な歴史の証言者である。シュウエツ家に伝わる様々な写真や書類などについては、本稿では具体的にふれられなかったが、ぜひ整理して後世に伝えていただきたいと思う。
 それは、ただ一家の歴史や白系ロシア人の歴史というだけでなく、「極東のなかの日本」を側面から照らし出すものだと思うからである。

 この稿を執筆するにあたって、シュウエツ家の皆様にたいへんお世話になったことを記して感謝の意を表します。


(1) 原暉之『ウラジオストク物語』 三省堂 1998年
(2) 中村融訳『サハリン島』 岩波書店 1953年
(3) 『樺太回復記念帖』 博文館 明治38年
(4) 『樺太庁施政三十年史』 樺太庁 昭和11年
(5) セルゲイ・フェドルチューク『樺太に於けるロシア人』 ユジノサハリンスク 1996年
(6) 樺太庁編「昭和二年九月南樺太居住外国人の状況」(市立函館図書館蔵)
(7) (4) に同じ
(8) (6) に同じ
(9) 大正4年6月15日付け「函館新聞」
(10) 昭和6年6月11日付け「函館新聞」
(11) 「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 蘇連邦人ノ部」(外交史料館蔵)
(12) 昭和7年11月7日付け「函館日日新聞」
(13) 昭和9年11月19日付け「函館日日新聞」
(14) 昭和11年4月10日「函館毎日新聞」
(15) 小山内道子「故国に帰った白系ロシア人の運命」『函館日ロ交流史研究会会報』13
(16) 『外事月報』昭和14年6月 (不二出版復刻版、以下同)
(17) 「昭和20年4月長官事務引継書」(北海道立文書館蔵)
(18) 『外事月報』昭和18年4月
(19) 『GHQ日本占領史第16巻 外国人の取り扱い』 日本図書センター 1996年
(20) 『外事月報』昭和18年6月、前掲『樺太に於けるロシア人』
(21) 牛島秀彦『巨人軍を憎んだ男』 福武書店 1991年
(22) 長縄光男「日本の府主教セルギイ・チホミーロフ小伝」『ロシア 聖とカオス』 彩流社 1995年
(23) (19) に同じ
(24) 牛丸康夫『日本正教史』 日本ハリストス正教会教団 昭和53年

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